タイトルの時点で全て決定してる感満載ですがそうなんです。バカっていうヤツがバカみたいな話
世の中には一定数高尚な道徳観を持った方々がいます。それは素晴らしいことで、僕自身それを目指さなきゃと思ったこともあったり、それに少しでも近づく努力は大事だし、決して貶されるべきではないんですけど
それでもそんな人とは仲良くなれる気がしない
それが正直な気持ちです。
もくじ
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無理しても自分は偽れない
こんなこと言っときながら、過去(大学生くらい)に僕は「人の悪口は言わない。自分の心が汚くなるから」という素敵なマイスローガンを掲げて生きていました。仏かよ当時の俺は
事実そういう生き方をしていた序盤は何か心が洗われたような気がしてとても自分に自信が持てたし何か人生がキラキラしたような気がしてました。しかし人生そう簡単にはいきません。自分がそんな生き方を出来ていたのは「社会に飛び出していない」「自身の状況が大学生という肩書に固定されている」というクローズドな環境に身を置いていたから。
程なくして転職し、地元熊本を出て社会の大海原に飛び出してからはすぐにその無理が訪れます。
慣れない職場、慣れない人間関係、知らない土地。たったそんだけで僕のダイヤモンド5000兆倍くらい固いつもりだった誓いにヒビが入ってしまいます。
そんな折に新天地・東京でできた友達に言われた一言が僕の胸に深く突き刺さります。
「せいじって、幽霊みたいな存在だよね」
意味が分かりません。以上です
……って言いたいところなんですが、感覚でなんとな~~~~く人にそう感じられてしまう節はありました。
ダイヤモンドの5000兆倍の固い誓いを立ててからというものの僕はどんな意地悪な人とでも接するようにして、その人のことを陰で悪く言う人たちの会話にも参加せず、いつも「人には誰しも欠点がある。だから欠点ではなく長所を見つけてあげることが大事」とか仏みたいな思考を巡らしていました。
正直仏以上に仏です。「三度まで」とかそういうレベルを超えて「何度裏切られようとも、人を信じなくなってしまっては人間終わりだ」みたいなことを考えてました。
でもそういうのって、無理してやってるとどこかしわ寄せが訪れるの。
笑顔が固くなってたり、変に人の目が気になったり、白髪が生えてきたり……
んで見る人が見ればそんな風に無理をしてだんだん自分が失われて存在感が薄くなってるのが分かるんでしょうね。
僕はその日を境に「人の悪口を言わない」という生き方を辞めました。
最初はまた生き方を変えることにビビって「心が汚い人間にならないか」とか心配してましたが、何のことはない、本来の人間らしい自分に戻るだけなんですね。
悪口や陰口って完全悪か?
世間的にはみんな言ってるくせにその割には禁忌として扱われてる悪口ですが、僕は本当に腹が立ったり嫌な思いをしたときには思う存分言うべきだと思います。
たとえ言わなかったとしても心の中にはドロドロとした黒い意識がめぐりズムしてるわけで、言わないことでその毒が消えるわけでもありません。
陰口だってそう。「本人の前で直接言えないビビり」っていう要素もあるけど、一方では「本人との空気を悪くしたくない」っていう慮りもあるわけじゃないですか。
個々人の心の調和と集団の調和の均衡を保つには、ムカついたり嫌だったりすることを口に出して発散することは必要な行動の一つ。うんこ出すとかそんなのと同じで、思いの丈を口から出すことは気持ちいいもの
だって逆によ? 悪口全く言わない人と話してみ?
「こいつ一体何考えとるんやろか……?」
ってなんない? 怖くね?
そう考えると僕は人が発する悪口や陰口に寛容になれた気がします。
むしろ悪口を感情のままに吐きだす人を見てると「うんうん、思うさま発散して明日を強く生きろや!」って気持ちになります。マジで
逆に人の悪口を言う人を遠ざけて周囲の人間と壁を作る人を見ていると滑稽だなぁと思います。マジで
一回そういう押しつけがましい人とケンカになって
「うっせー耳が腐るわタコ!」
と言ってしまったことがあります。
正直すごく気持ちよかったです。以上です
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大事なのはバランス
はい、なんかメシの食い方みたいな締め言葉になってしまいますが、結局は「バランス」という魔法の言葉に集約するんですよね。ほんまマジック
全く悪口を言わない人生なんて、様々な人間関係に身を投じてしまうと無理が生じるし、かといって何に関しても悪口を言う人だって社会的に爪弾きにされがちです。何かと極端な思考に身を置くってことはそれだけ自分に負担をかけるもんだよね
何かダラダラ語りましたが、要は「ムカつくことはワーッと言って発散することも大切よ」ってことですね! わあ簡単!
そんな話です。
エンド
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