僕らは日本に住んでて大体家には仏壇があったり、お墓参りはお寺に行ったりする。
そうでなくてもご飯食べるときに「いただきま~す」って言うよね。あれも仏教だったりするけど意識してない。
敬虔な仏教徒でもないのに。何なのこの溶け込み具合
今回は僕らの生活の中に溶け込んでいる仏教の教えをもう一度見直してみて、これからの生活に生かすことができないか考えてみようと思う。
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Kalama sutta(カラマ・スッタ)
カーラーマという氏族が伝えた経(仏教における教えや言葉)であるためこう呼ばれている。
内容としては「簡単に信じちゃアカン!」「鵜呑みにするなよ」と言うようなことを10の文に分けて書かれている。
今回は、それを現代語風に要約します。
- mā anussavena・・・噂されているからって信じない
- mā paramparāya・・・そんな風に言い伝えられてるからって信じない
- mā itikirāya・・・聞き伝えで信じない
- mā piṭakasampadānena・・・権威のある書物に記されているからと信じない
- mā takkahetu・・・考えてその結果に行きついても信じない
- mā nayahetu・・・定理だとか、学問上の「正」でも信じない
- mā ākāraparivitakkena・・・似たような事例、経験から信じない
- mā diṭṭhinijjhānakkhantiyā・・・自分がその考えに納得しても信じない
- mā bhabbarūpatāya・・・頭のいい人の言葉だからって信じない
- mā samaṇo no garūti・・・自分の先生(師)だからって信じない
うん、見事なまでに信じないお言葉の数々!!
「最後に頼れるは、自分自身」という言葉も聞いたことがあるが、この項では自分自身だけでなく、この言葉自体も見事に疑いの対象に入っている。
もちろん信じないだけじゃ行動は制限されっぱなしなので、あくまで「盲信するなよ」「よく考えなさいよ」ということを端的な言葉で表しているだけです。
正しいことも「100%正しい!!」と思わず、どこかに疑いの心を持ち、常に客観視できるようにしておきなさい、と言うことかな。
「自分が納得しても」なんて、詐欺なんかにも通ずるところがあるね。
現代的な話で言うと、2chの創設者ひろゆきの「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」というように、世の中は欺瞞にあふれているから、気をつけなさいということ。
諸行無常(しょぎょうむじょう)
仏教的な話になると必ず出てくるこの言葉。
「(宇宙を含む)世の中は常に動いている。」と言うように、未来永劫そのまま同じものなどこの世にないということを説いている。
例えば、今あなたが見ているこのパソコンモニタやスマホ、タブレットなんかも「形あるもの」としていつかは壊れ、また生み出されるものである。
人間もいつかは死に、そしてまたどこかで生まれる。その中の一人の人生にしても、大小あれど運の良いこと、悪いことがあり常に一定ではない。
そんな風に「どんなこともそのまんま続くわけじゃないよ!」というユルいようで核心を突いたお話。
今の人生に悩んでいる人、どこか伸び悩みや行き詰まりを感じている人は参考にすると良いかもしれません。
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受け入れること=あきらめる
この見出しだけを見てマイナスなことを考えたあなた! もう少しだけ見てって!
例えばあなたが病気になったり、借金地獄になったり、不治の病にかかってしまったり……
苦しみだったり、不幸だったりはこの世にビックリするくらいあります。
そうなったときに「いやだああああ!!」と悲しみに暮れ、泣きつくしたままも人生、それを受け入れその上でどうするかも人生。
今皆さんが目にする「諦める」という漢字は、仏教の世界では「明らめる」と書く。
これは、そこで「中止したり断念することでなく、現実をしっかりと見つめ、物事を明らかにして受け入れる」ということを表しています。
僕も、足骨折して仕事も失って悲観してた時、ブログを始めて色々な価値観に触れ、新しい仕事や目標を手に入れてた時は「あきらめる=明らめる」の言葉の意味を少しだけ体感できた気がします。
末期ガン治療なんかでも、余生をどう過ごすか? 何を見て、何に触れて生を全うするかなんかを考えるという。
その出来事一つ一つにマイナスな感情をぶつけるより、全体を見て「今何ができるか?」だとか「何をすれば自分は納得するか?」を考えた方が良い。
変に前向きでも、悲観的でもない「ニュートラルな目で世の中を見なさいよ!」という教えでした。
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
先述の諸行無常、そして諸法無我を自覚して生きよと言うこと。
んで「無我」って何よ? というのは・・・
- 生まれながらの「自分」なんていうのは存在しない
- お互いに影響しあって今の「自分」が形作られている
- 諸行無常の中で移ろい行く結果が「自分」である
こういったお話。
つまり「今その性格(体型や顔立ちなんかも)のお前が存在するのは、たまたまそういう人生があったからで、違う物や人(その他多くの経験)に触れてたら全く違う人間になってたんやで」ということ。
なんか、あたりまえの事を言ってるようで、やはり人間は「俺は俺だ!」ということにとにかく執着してこのことを忘れがち。
何か自分の考えや行動に疑問を覚えたり、「個性って何だ!?」みたいな芸術肌な思い悩みに苦しんでいる人がいたら少しこれを思い出してみてはどうだろうか?
そうすると、「ちょっと、新しい出会いを探してみようかな」とか「いつもと違う道で帰ってみようかな」とか些細なことだが自分を変えたり立て直すきっかけになるかもしれないよ!
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仏教って、ユルい
何がすごいってここまで話しておいてすべての話は最初の「カラマ・スッタ」を当てはめると「信じていいとは限らない対象」に入っちゃうってこと。
「矛盾こそ真理」とでも言い表せばいいのか……
いろいろな教え自体は後世に伝えられてはいるが、「こう考えないとアカンぞ」とか「その解釈はおかしい!」とかいうものがない。それこそ「諸行無常」であり「涅槃寂静」の姿ではないだろうか?(そうでないかもしれないw)
このへんも「いいんじゃねーの」程度に捉えられてるのが仏教の魅力。
なんか、相談事をユル~いお兄さんに持ちかけてる気分。でもそれが心地イイ
ここに挙げた仏教の教えの数々はある意味「逃げ」だ。
しかし、その「逃げ」を「卑怯」だとか「いけない事」だとか考えるのは人間というちっぽけな存在だけであり、そこに是非を求めるのはナンセンスなわけである。
情報過多になって頭の中が混乱する今の時代。
「ソースどこよ?」を口走るより、たくさんの情報を見た上で「何が本当か分からない」と思っていたほうが情報に惑わされず、快活に生きることができるかもしれんバイ。
エンドかもしれない
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